論文に必要な2つの「挨拶」

古い記事だが,内田樹の研究室にて「若い研究者たちへ」を読む。

修士論文の提出締め切りまであと二ヶ月。今書いているものが本当にこれでよいのか気になりだしている。そこで,夏休み前に読み,刺激を受けた記事を読み返してみることにした。

内田先生は,論文には2つの「挨拶」が必要であるという。2つとは次の通り。

  1. 「どうしてその学的主題の選択には必然性があるのか、それを非専門家にも納得がゆくように説明する」
  2. 「当該主題についてのこれまで積み上げられてきた業績についての表敬」

1.は「なぜ研究するのかの説明」,2.は「先行研究の批判」である。この2つが,論文に必要な要素であるというのが,当の記事の主張。

「なぜ研究するのかの説明」については,こう書く。

研究というのは、自分の「後から」同じ主題について考究することになる「いまだ存在しない研究者」のために里程標を打つことである。極論すれば、その論文を読んだことによって、はげしく知的興奮をかきたてられ、同じ主題について「自分もまた一生かけて研究したい」と思うような若い世代を創り出すことである。

研究とは「いまだ存在しない研究者」のために道標を立てることである。そのためには,「なぜ研究するのか」を説明することによって,「いまだ存在しない研究者」の知的興奮をかきたてる必要がある,というのである。

これが1つ目の「なぜ研究するのかの説明」という「挨拶」が必要な理由。

そして2つ目,「先行研究の批判」。

自分が知的なリソースの贈り手でありうるのは、自分もまた先行する研究者たちから豊かな贈りものを受けとったからである。先行研究に何も負っていないまったくインディペンデントな学術研究などというものは存在しない。だから、先行世代からの学恩に対して十分にディセントであること。
(中略)
自分のいまの仕事はいつだってある「続きもの」のなかの一こまである。誰かが私をインスパイアしたのである。その消息について論及するのが先行研究批判である。

今,自分が論文を書いているのは先行研究にインスパイアされたからである。だから,その流れを書き,過去の研究者へ敬意を表すのが「先行研究批判」である,という。

—–

ようするに,「なぜ研究するのかの説明」は未来へのメッセージであり,「先行研究の批判」は過去へのお礼である。過去から受け取ったものを土台に新たな創造を付け加え,未来へ受け渡す。内田先生は,この繰り返しを研究であると捉えているのだろう。

記事はこう締めくくられる。

その人の学者としての器量がどの程度のものかは、「最初の挨拶」を聴いただけでわかる。
自分がどういう知的伝統の「コンテクスト」の中に位置づけられているのか。
それを適切に言うことのできるクールで中立的な知性。
そのコンテクストの中に置かれてあることを「幸運」として受け止めていること。
先行世代への感謝の気持ちと、後続世代への配慮があること。
それが整っている研究者なら、どんな主題についてもクオリティの高い仕事をしてくれるに違いない。
知と愛。
学者に求められているのはそれだけである。
院生諸君の健闘を祈る。

[内田樹の研究室: 「若い研究者たちへ」]

——-なぜかここで業務連絡——-

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http://lib-s.koyasan-u.ac.jp/mylimedio/top.do


“論文に必要な2つの「挨拶」”には2 件のレスポンスがあります。

  1. 1 『大毘盧遮那経義記』断簡

     本稿を読んで強い感銘を受けた。まさにその通りである。自分も修士論文の提出を間近に控えたものだが、いかに論を進めるか、また自分自身の研究が稚拙なものに感じられて仕方ない。
     そんな悩みを図書館で打ち明けると、先輩からこう言われた。
    「何かいわれたら”それがどうした”と言え。」
     これから座右の銘にしようと思う。

  2. 2 sinryo

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